alchemist_380 のひとりごと

元・水の分析屋さんがブツブツ言います

私たちの食卓にアムール川の恵み

元・水の分析屋さんの学生時代のこと、海水中の微量金属元素の濃度を測定するという研究テーマをいただいておりました。海水が相手ですから、旧Ia族(アルカリ金属)のリチウム Li、ナトリウム Na、カリウム K、ルビジウム Rbに、旧IIa族(アルカリ土類) のマグネシウム Mg、カルシウム Ca、ストロンチウム Sr、バリウム Ba なんかが、ほぼ完全にイオンとなって存在しています。

そのほかの金属元素は、原子吸光法に持ち込めば、邪魔な奴がいても何とか測定できます。しかし、鉄は原子吸光法に持ち込むまでがうまくいかなかった。十年以上も後、うまくいかなかった理由に思い当たって、自分の不勉強にちょっと腹が立ちました。分析の仕事を離れて幾年月、今でもたまに夢に出てきます。

まあ、泣き言はさておき、海水中の鉄などの測定はとてもムツカシかった。でも、最近色々なことができるようになって、新しいことが分かってきた。もっともっと先に進んでほしいと思わずにはいられません。

 

今回は化け屋さんの興味で「鉄」の話。撮ったり乗ったりするのではないですよ。

 

鉄に注目する理由(今回は三つではないです)

唐突ですが、厚生労働省お墨付きの「日本人の食事摂取基準(2020年版)」で必須ミネラルとされるもののうち、特に不足しやすいのが、カルシウム・カリウム・鉄・亜鉛の4つだそうです。今日はこの中から鉄 Fe に注目。

血液中の赤血球に含まれるヘモグロビン(hemoglobin; Hb)は、酸素の運搬を担うタンパク質。「ヘム」と「グロビン」が結合したもので・・・詳細は省略ですが、「ヘム」の中心部に配位する2価の鉄に酸素が結びつくそうです。なるほど、鉄が不足すると貧血になるというのは、赤血球のこの働きが悪くなるからなのですね。

「配位」の説明は後日

鉄分に富む食品としては、レバー、ほうれん草、ゴマなどがあげられますが、海藻類もなかなかのもの。そう、海のものだけに海水に含まれるミネラルは豊富であたりまえのはず・・・あまり食べ物の話を続けるのもどうかと思うので、ここらへんで海の話にしましょう。

表層の海水は、よほどのことがない限り酸化環境ですから、鉄は三価の鉄(赤さび)になって、粒子を作って沈殿するのではないか。pH だって海洋表層では 8くらいですから、水酸化鉄(Ⅲ)Fe(OH)3 の沈殿になりやすいはず。実際、粒子状の三価の鉄の溶解度は、海水1 L あたりナノモル nmol (10-9 mol) のレベルです・・・

さて、北太平洋亜寒帯循環域の東部、アラスカ湾方面からアリューシャン列島周辺は、ブロッカーのコンベアベルトが深層から表層に戻ってくるところ。世界でも有数の栄養塩類の高濃度域です。一方、この海域は鉄の供給が不足しており、生物生産が制限を受けていることでも知られています。鉄は、植物プランクトン光合成を行うために必須の元素なのです(光合成の電子伝達、色素の合成、硝酸還元などに必要)。この海域に限らず、世界の海洋表面積の約50%において、鉄が植物プランクトンの成長の制限要因になっているそうです・・・ってなもので、生産性が高い海域には陸上からのダスト等によって鉄が輸送されていると考えられていました。

ところが、北太平洋亜寒帯循環域の西部/下流側(カムチャッカ半島~千島列島~親潮域)は、植物プランクトンの活動が盛んで、極めて生産性が高い海域になっています。鉄が十分にあるからだというのですが、いったいどこから供給されているのか。そしてもうひとつ、一体どうして十分な量の鉄が「溶けている」のか。

 

「溶けている」のにも色々ありまして・・・

順序が逆になりますが、鉄が「溶けている」話から取りかかりましょう。

昨年 9/28 の記事で、天然に存在する元素92種のほとんどが海水中に存在していることを紹介しました。下線部分は重要で、「存在している」のだが「溶けている」かどうかはビミョー、な場合があり、鉄はまさにその代表例なのです。

もっとも単純に考えると、ダジャレ風で恐縮ですが、鉄は酸化環境で3価の鉄の粒子になったり、pH8 くらいだと水酸化鉄で沈殿したりします(Fe(OH)3 など)。周囲の粒子状物質に絡まってコロイド状になれば水中に漂うことはできる・・・といったところでしょうか。

しかし、海底に堆積するか海底へと沈降する途中で、酸素の乏しい状態におかれると、3価の鉄は還元されて2価の鉄イオン Fe2+ が溶出。これが再び酸化されて Fe3+ になる前に腐植物質(フミン酸 humic acid、フルボ酸 fulvic acid)などと結びつくと、有機錯体鉄(Ⅱ)として「溶けている」状態で存在できるようになります。すると、堆積物などの Fe(OH)3 からもっと Fe2+ が溶出できるようになる・・・この繰り返しがあるせいで、海底堆積物の表層 1 cm程度のふわふわした部分にある間隙水中には、濃度が数十 μmol L-1 にも達する「溶存態」=「溶けている」鉄があるといいます。

※ 三価の鉄の粒子は溶解度 nmol L-1 が関の山。それが μmol L-1 の桁になる。自然現象で 3桁違うことが起こっているのですから、何があるのかと興味津々です。

土壌フルボ酸の平均化学構造モデル (一例です)

※ フミン酸よりも有機錯体を作る力がはるかに強いと言われているフルボ酸だけ図示します。


フルボ酸は、腐植物質と呼ばれる天然有機物の一種ですが、ひとつの分子内にフェノール性水酸基‒OH; 青字(i) とカルボキシ基(‒COOH; 赤字)を複数持つ構造をしています。金属イオン等を配位結合で安定化させる、強いキレート効果をもっており、自然界のミネラルやアミノ酸を運搬する役割を担っています。鉄も上に書いたとおり有機錯体鉄(Ⅱ)として水中で安定に存在できるようになって運ばれるのです。

(i) これを多くもっているのでポリフェノールの一種だということになります。

ついでの話ですが、フルボ酸は生物にとって有益なことこのうえない物質です。人間が摂取すると栄養素の吸収率が高まり、身体に有害な重金属や化学物質をキレートにして体外に排出してくれるそうです。そういう触れ込みの健康食品も売られていますね・・・業者の回し者だと思われないうちにやめておきましょう。

まあ、鉄が「溶けている」話はこれで一丁上がり。

 

鉄とフルボ酸の供給源はアムール川

さて、今度は供給源の話。オホーツク海に大量の淡水を供給するアムール川ですが、運ぶのは淡水だけではありません。フルボ酸と鉄についても大きな供給源になっているようです。

アムール川の流域には湿地帯が多く、酸素が乏しい腐植物質に富んでいます。還元環境の中でフルボ酸と結びついた鉄が川に入るので、日本の平均的な河川に比べると、鉄の濃度は一桁以上高いとされています。

淡水とともにオホーツク海に入った有機錯体鉄は、塩分の高い海水と接すると沿岸域で海底へと沈降しますが、流氷を作る過程で生じる鉛直循環と(海底堆積物からも再び溶出するのでした)、オホーツク海内部の循環によって外洋域へと運ばれます。かくして、フルボ酸によって運ばれた鉄は北海道沿岸にも到達し、潮汐作用による激しい混合をともないつつ、千島列島の海峡をとおって親潮域の表層にも出て行きます。

オホーツク海親潮域への鉄の供給に関する概念図

上図に示す、高栄養塩低クロロフィル(High Nutrients Low Chlorophyll; HNLC)の海域では、鉄が不足しているために、せっかくの豊かな栄養塩をプランクトンが消費しつくすことができなくなっています。栄養塩類だけではなく、鉄があってこそ植物プランクトンや海藻類が豊かな海になる。私たちの食卓はアムール川の恩恵に与っているといっても過言ではないのでしょう。

 

地球温暖化にともなって海水の pH は徐々に低下しています。金属元素や化合物の溶解度、水酸化物の作りやすさなど、いろいろなパラメータが変化することになるはず。姿を変えながら動いている物質を追いかける化学的手法の役割はいよいよ重要になろうかと思います。

最後に。元・水の分析屋さんの不勉強とは、海水中の金属元素がどんな化学形で存在しているのか、ほとんど考えていなかったことです。海水試料を強酸性にして保存しておけば、あとは何でもOKのつもりでした。泣き笑いです。