alchemist_380 のひとりごと

元・水の分析屋さんがブツブツ言います

リン酸塩とケイ酸塩の分析法 (3)

NHK大河ドラマ「光る君へ」、毎回楽しみに見ています。吉高さんのまひろはさすがですが、ウイカさんの清少納言も、才気煥発、なかなかのはまり役ではないでしょうか(ドラマでは「ききょう」ですが、清原元輔の娘、本当の呼び名は不明です)。

ネット上でも話題になった「香炉峰の雪」。枕草子 二九九段「雪のいと高う降りたるを」がネタですね。では、さらにさかのぼった元ネタをご存知ですか?

楽天白居易)の七律からの対句(聴覚と視覚の対比にもなってますね):

遺愛寺鐘欹枕聴  遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聴き

香炉峰雪撥簾看  香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る

遺愛寺の鐘の音は 枕をずらすようにして聴き、

香炉峰の雪景色は すだれを巻き上げて看る。

夜のうちに雪が降ったようです。雪は降る、あなたは来ない(Tombe la neige, Tu ne viendras pas ce soir... アダモちゃん)。犬が庭駆け回るかどうか、外の様子をちょっと見たい。といったところかどうかは知る由もないのですが、中宮・定子様が「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ(どうであるか)」とおたずねになった。清少納言はすぐに「外の雪景色をご覧になりたいのではないか」と思い至ります。そして「御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑わせたまふ」。おお、なるほど、やるやんか。

当時(西暦で1000年前後)の宮廷においては「和漢朗詠集」や「白氏文集」は知っていてあたりまえの基礎的教養であったはず。そこを踏まえて超えて、「どうであるか(見せよ)」と訊かれて「このようです(ご覧下さい)」と応じる見事な機転。中宮様は、我が意を得たり、さすがは少納言である、とお笑いになったわけですね。

若かったあのころ、枕草子に対してお高くとまったような、どこかいやなイメージをもっていました。でも、年を取ってから全体を読み直して、色々な評論や解説にも触れてきました。今は、没落の運命をたどる定子様を慰めるかのように、美しい事柄やよい思い出話を、ただただ書き連ねていたのかな・・・と思っています。少納言、細やかな心の持ち主だったんでしょうね・・・こんなことを書いているだけで、涙腺が故障しているのが分かります。

 

今回は、知っていてあたりまえのことが抜け落ちていて、先例を踏み外すうっかりミスをしたところに、チェック機能までも働かなかった話。

 

「どうしてこうなった」

1999年改訂版の「気象庁海洋観測指針」。リン酸塩分析法の測定波長の設定と分析試薬の調製法に不備がありました。前回繰り返し書いた「大切なこと」への理解が抜け落ちていたのです。

1999年改訂版、いったい、いつどこで誰がなにをなぜどのように(i) 間違えてしまったのでしょうか。

(i) 5W1H:「When(いつ)」「Where(どこで)」「Who(誰が)」「What(何を)」「Why(なぜ)」「How(どのように)」の頭文字をとった言葉。情報をこの要素で整理すれば、内容が正確に伝わりやすいといいます。

1999年改訂版の話なので「いつ」なのかは・・・そんなもんでしょう。また、改訂の作業は気象庁の海洋観測部門でやったことに決まっているので、「どこで」も改めて問う必要はないでしょう。確かめるべきことは、「誰が」「何を」「なぜ」「どのように」の4つです。

「誰が」は、個人を特定するような話ではないので後回しとして、「何を」&「なぜ」と「どのように」の部分は連動しているので、そこから考えていきましょう。

海水中にはリン酸塩もケイ酸塩も含まれており、どちらの成分も「モリブデンイエローを作って、還元して、モリブデンブルーにして吸光法」という分析法になっています。測定にかかってほしくない方の反応を抑制できなかったり、吸光法に持ち込んだところで測定波長を間違えたりすると、リン酸塩だけ測りたいのにケイ酸塩まで参加してしまう・・・ここが知っていてあたりまえ、知らないようではまずい「何を」の部分。

反応系内部の pH が十分に低くないと、リン酸塩だけ反応させたいところ、ケイ酸塩の反応を抑制できない。ここは pH 値設定の意味を知らなかった罪です。もうひとつ、「モリブデンブルー」という呼び方は同じでも、リン酸塩とケイ酸塩では測定される物質が異なり、吸収ピークの位置も異なるのですが、リンモリブデン酸からできる青の吸収ピークは 882nm 付近なのに、1999年版ではなぜか 830nm で測定することになっていました(ケイ酸塩の吸収ピークに近い)(ii)

以上、私の言葉遣いまでおかしくなっていますが、設定された pH についても、吸光光度計の測定波長についても、引用すべき文献にも、旧版の指針にも掲載されていない値が採用されていた、ということになります。

(ii) 最新の「指針」の測定波長はそれぞれ 880nm と 820nm に直っているはずです。気象庁の部内の資料(文書)を一般人に見せようとはしないでしょうけど。

こうして「なぜ」なのかはまったく不明ですが、「どのように」は実現されました。「人為的ミス」にはありがちなことです。

 

やってしまうタイプの人物像と職場の環境

話を「誰が」に進めましょう。問題だらけだった「指針」の著者の人物像などについて、あれこれと想像をめぐらせて、悪態を並べ立ててみます(笑)。

まず、この人は、自分の知識が足らない分野の仕事を、安易にかどうかは別として、引き受けてしまいました。上司から言われたら何だって引き受けるのか。ほかに自分よりは適任の人がいるはずなのに探せないのか紹介できないのか。はたまた賢い友達がまわりにいないのか。

次に、この人は、前例に倣ったつもりかも知れませんが、根拠なく前例と違うことをやっています。試薬の名前はあっていましたが、その調合割合はどこを探しても出てこない。測定波長も「取り違えた」のではなく、どこから引っ張ってきたのか分からない。極端な言い方をすれば、コピペすら満足にできなかったことになります。

最後に、そういう人に任せなければならなかった職場の状況。必要な専門知識をもっていそうな人がいなかったので、できあがりを入念にチェックできる人もいなかった。反応時の pH を計算して(高校生の化学の試験レベル)、測定波長が正しいかどうか前例を見て、肝心な部分を確かめていれば、ミスは起こらなかったはず。この職場を与っていた人は、分析屋さんの仕事に対する責任を感じていなかったのでしょうか。

 

補正可能だったリン酸塩データ

実際、誤った指針に従って分析していた期間のデータを調べると、共存するケイ酸塩の影響で最大5%にも達する測定誤差を生じていました。しかし、そこは「指針」です。みんながそろって、常に分析条件が同じになるようにしたので、妨害の現れ方も常に同じはず。であれば補正することができるでしょう。

ケイ酸塩の影響の現れ方が常に同じであれば補正可能

リン酸塩とケイ酸塩の混合標準液を用いた同時分析を行っている場合に限りますが、ケイ酸塩の影響を上の図のように考えると、リン酸塩濃度の補正値を論理的に決定することができます(iii)。これ以上詳細には踏み込みませんが、皆がそろって同じ間違いをしていたので、データを補正できました。

車は左側通行のところ、1台だけ逆走してくると大変まずいですが、皆で右側通行するなら・・・というのは、たとえが悪いでしょうか。

(iii) 気象庁の測候時報、2006年の第73巻特別号に「ケイ酸塩の影響を受けたリン酸塩データの補正法」という報告があります。